大圓寺由緒

大圓寺 | 大圓寺由緒

西山浄土宗鏡智山大圓寺

1145年、朝明郡馬場(現三重郡菰野町)に呂運上人が開山し天台宗として創建されたのが始まり。
のちに、桑名郡益田庄高畠(現桑名市今一色町)に移り、西山浄土宗となり、さらにその後、一色町へ、1659年に現在の地へ移った。
市指定文化財として、十王図10幅がある。中国からの伝来品として伝わっており、作者不明。1408年に北畠大納言より聖妙興有上人が拝領。図様は、金大受筆十王図の系譜に位置づけられるものである。

法然上人

法然上人は平安の末、長承2年(1133)4月7日、美作国(現在の岡山県)久米南条稲岡庄に押領使・漆間時国(うるまのときくに)の長子として生まれ、幼名を勢至丸(せいしまる)といいました。勢至丸が9歳のとき父・時国が夜襲され、不意討ちに倒れた時国は、枕辺で勢至丸に遺言を残します。「汝さらに敵をうらむ事なかれ。これ偏(ひとえ)に先世の宿業(しゅくごう)なり。もし遺恨(いこん)をむすべばそのあだ世々に尽きがたし。早く俗をのがれ家を出て、我が菩提を弔い、みづからが解脱を求めよ」この言葉に従い勢至丸は菩提寺で修学し、その後15歳(一説には13歳)で比叡山に登って剃髪受戒、天台の学問を修めます。久安6年(1150)18歳の秋、黒谷の慈眼房叡空の弟子として法然房源空(ほうねんぼうげんくう)の名を授けられました。叡空のもとで勉学に励んだ法然上人は「智恵第一の法然房」と評されるほどになり、以後、遁世(とんせい)の求道生活に入ります。24歳の時、比叡山から南都遊学の旅に出られました。その途中、粟生の里の長者高橋茂右ヱ門宅に一泊され、その際「ご房が求められようとする、 『誰もが救われる法門』が見つかりましたなら、是非とも我らにその教えをお説き下さい。」と茂右ヱ門夫婦に懇請されました。20年後、膨大な一切経の中から阿弥陀仏の本願を見いだします。それは「南無阿弥陀仏」と声高くただ一心に称えることにより、すべての人々が救われるという専修念仏の道でした。承安5年(1175)43歳の春、専修念仏の確信をえた法然上人は比叡山を下り、 約束通り粟生の里をお念仏の教えを広く説き始める地に選ばれました。そして建暦2年(1212)正月25日、80歳で法然上人は入寂されました。

西山上人

西山上人(善慧房證空)《1177~1247》は、村上源氏の加賀権守源親季の長男として生まれ、9歳の春に、同族の久我家である内大臣久我通親の養子となる。 14歳で法然上人の弟子となり、それから約23年間法然上人に師事しました。西山上人が出家の際は、その求道心に感動された法然上人は涙を流し剃髪をされました。本来であれば、見習い期間を必要とするところ、入室と同時に剃髪出家を認められるほどの器量の持ち主でした。また、西山上人は法然上人の専修念仏の教えを忠実に修学された弟子です。法然上人は当時の太政大臣九条兼実公の懇請に応じて『選択本願念仏集』を著されました。その作成において執筆の役(第三筆)と勘文の役を西山上人に担わせました。勘文の役割は法然上人が言われる教えの根拠を経典や論書のうちから探し出すという仕事です。これはよほど経典・論書に精通してなければできない役割です。西山上人の学びは尽きることなく、後には天台宗における止観の法門と密教(台密)を学ばれました。これらの修学は法然上人の推挙によって行われたことで、 法然上人は西山上人を立派な学僧に育て上げ、 また自ら打ち立てられた専修念仏の教えを、 四宗兼学(総合的な仏教理解)のもと学ばせる為でもありました。それゆえに西山上人は、法然上人より教理・教学のことを一任されるほどの人物でした。